自分の前世を覚えていた 康熙帝の家庭教師

【脱党支援センター2020年7月27日】

清朝初期、保和殿大学士の一品文官李霨は自分の前世を語ったことがあります。彼は台湾の歴史において、重要な関わりを持っています。

李霨は順治と康熙の二人の皇帝に仕え重用されました。彼は康熙が太子時代の教師を長く務めました。李霨は河北省保定出身で、康熙23年、59歳の時に亡くなりました。清朝初期書物《三岡識略》によれば、李霨は、自分は前世では経典や歴史を熟知する書生でしたが、いつも試験に失敗していたと言います。また、豪邸に住んでいる隣人の李氏にも嫉妬していました。

ある日、具合が悪くなった彼は体が急に軽くなって、李氏の家に入って行きました。すると、一人の婦人を囲んでいる女中たちが見えました。赤ちゃんが生まれるようでした。彼は様子を見ようと梁に登りました。しかし突然、誰かに強く押され、李霨は婦人の身体の上に落ちて意識を失いました。目が覚めると、自分の体が30センチくらいになっており、寝台にうつ伏せになっていました。

その日は寒い雪の日で、婦人は窓の外の音は何かと聞きました。生まれたばかりの李霨が「雪です」と答えました。婦人は仰天して、赤ちゃんを溺死させようとしたが、父親に止められました。それから李霨は喋るのをやめました。

李霨の父親の李国pu(漢字構成:木普)は明朝の首席内閣大学士(皇帝の秘書役)でした。残念なことに李霨は7歳の時に両親を亡くして孤児になってしまいました。親戚の一人が彼を指さして言いました「話せない子を残しても仕方がないだろう」。すると、李霨は突然笑いながら喋り出したので、皆が驚きました。小学校に入ると、李霨はどんどん聡明さを顕し、21歳の時、進士に合格し、戸部尚書まで昇進しました。そして34歳の時には保和殿の大学士になり、太子(康熙)の教育係を担当しました。康熙帝の指示は全て李霨が詔書にしたものでした。

台湾が清朝の一部としてその版図に記載されたことは李霨と関係しています。《清史稿》《台灣通史》にはこう記載されています。清朝の武将、施琅(シーラン)は台湾を攻め落としたが、朝廷内では台湾は未開の土地で、捨てるべきだと議論が上がりました。しかし、施琅は反対しました。なかなか結論が出なかったことで康熙帝は大臣らを招集し、意見を求めました。

すると李霨は、「海に浮かぶ台湾は福建の盾になっている。この地を放棄すれば、外国人が占領し移民が増えると面倒なことが起こりうるので。施琅の意見を採用すべきです」と発言しました。大臣らも彼に賛同し皇帝に進言しました。のち、康熙皇帝は台湾を清朝の版図に組み入れ、台湾に「一府三県」を設立し、守るために兵を進駐させました。

転載新唐人

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